2007/06
近代化の推進者 江川坦庵君川 治



韮山反射炉
 反射炉を最初に築造したのは佐賀藩、ついで薩摩藩や水戸藩であり、みな大砲鋳造が目的であった。
 洋式反射炉を造るバイブルはヒュゲーニン著の「大砲鋳造法」である。この本は高島秋帆が最初に手に入れたもので、江川坦庵や各藩主も競って蘭学者に翻訳させていた。
 江川坦庵は江川家36代江川英龍で、欧米列強が開国を迫って日本にやって来た幕末の時代に西欧科学技術の知識を吸収しつつ技術者を育成し、周囲の無理解と反対勢力の中で科学技術振興を推進した人物である。
 坦庵は韮山代官であると同時に幕府旗本として江戸屋敷をもち、常時は老中に拝謁できる官僚として優れた政治手腕を発揮した。晩年には幕府勘定吟味役海防掛、勘定奉行外交掛として活躍している。早くから蘭学や西洋技術に注目し、自ら長崎遊学を幕府に願い出たが許されなかったことから、部下8名を親交のあった長崎の高島秋帆の元に入門させて西洋砲術を勉強させた。
 高島秋帆はアヘン戦争で清国がイギリスに敗北した情報をいち早く入手し、幕府に西洋砲術の採用を上申した。幕府には当時、西洋砲術にアレルギーを示す役人が多かったが江川坦庵の後押しにより徳丸ヶ原で実弾演習を行なったところ、実地検分した幕府の役人もその威力を認めざるを得なかった。徳丸ヶ原は高島秋帆にちなんで高島平と名付けられて、東京のベットタウンとなっている。
 演習に使用した大砲・鉄砲は幕府お買い上げとなる。江川坦庵は幕府が購入した大砲や鉄砲の借用を願い出て、韮山の江川屋敷に西洋砲術の塾を開設して多くの門弟を教育した。最初の塾生は佐久間象山であり、塾生は3700人におよんだ。その中には福沢諭吉や大鳥圭介、橋本佐内、桂小五郎もいた。
 江川坦庵は大砲を鋳造するための反射炉を韮山に築造した。最初は縮尺モデルを作って研究し、実地においては蘭学者や佐賀藩技術者の協力を得ている。現存する韮山の反射炉はほぼ完全な姿で残っており、反射炉としては世界で唯一の産業遺産である。
 日本で最初の洋式造船は、下田に停泊中に津波で大破したロシア提督プチャーチンのディアナ号の代船として、伊豆西海岸の戸田湾で建造された。設計はロシア船員で、江川坦庵の監督のもとで7人の船大工により建造された。
 幕府の長崎海軍伝習所が開設されると、第1回伝習生に家臣4人、第2回伝習生にも4人を派遣し、伊豆の船大工も2人送り込んだ。彼らの多くは、その後造船技術者として活躍している。
 新橋から「ゆりかもめ」で国際展示場に行く途中に若者に人気のお台場海浜公園がある。ここは江川坦庵が設計・築造したお台場跡である。外国軍隊に対する備えとして品川御殿山下から深川にかけて防衛線を作る“お台場砲台”は13ヶ所計画された。現在、第3台場と第6台場が残っており、お台場海浜公園にあるのは第3台場であり砲台跡も残っている。
 江川坦庵は渡辺崋山、高野長英などの蘭学者や鍋島直正、島津斉彬など開明派の藩主と交流があり、西洋の技術に着目した政治家であった。今風に言えばシステムエンジニアであり、技術のプロデューサーというところか。


筆者プロフィール
君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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